飼い主の倫理的責任

2025年8月12日

2025年8月12日

はじめに

動物の飼育には長い歴史がありますが、そもそも飼育とはどのような判断に基づいて行われるべきなのでしょうか?例えばある人が、ペットについての知識こそが判断材料だと考えたとします。では、彼はどのようにしてその考えを導いたのでしょうか?

飼育と動物倫理学

私たちが動物の飼育の仕方を学んでいくと、最終的には倫理学、特に動物倫理学に行き着くのではないかと思います。なぜなら、飼育者としての心構えのような、飼育という活動に対して私たちが持つべき態度を理解したくなるからです。そして、私たちが思い浮かべる理想の飼育者の態度は、いわば飼育における原理であり、飼育に関するあらゆる事柄を決める法則であると考えられます。この法則は、動物倫理学という学問として知られています。

動物倫理学とは、人間と動物の関係において、正しいこと(善)と為すべきこと(善に基づいた行為)を考える哲学の分野です。動物倫理学は倫理学が発展したものであり、その派生元である倫理学は主に人の行為を扱っていました。しかし、20世紀後半に動物の権利を主張する倫理学説が現れ、次第に動物倫理学という分野が確立されていきました。

倫理学の3分類

動物倫理学にはいくつかの種類がありますが、いずれも倫理学と共通しています。倫理学の主な分類は3つあります。

功利主義

功利主義は結果を重視する倫理学です。行為の善悪を、その行為がもたらす結果によって判断します。功利主義を表す有名な言葉が、「最大多数の最大幸福」です。つまり、苦痛を最小化し、快楽や幸福を最大化することが善です。

義務論

義務論は行為そのものの正しさを重視する倫理学です。行為自体の道徳的価値が問題であると考えます。

徳倫理学

徳倫理学は行為者の人格を重視する倫理学です。どのような人間であるべきかという徳の観点から善悪を判断します。

いずれの倫理学も長所と短所があり、これらを適切に使い分けることが重要です。その理由をトロッコ問題を使って説明します。

トロッコ問題では、暴走するトロッコが5人の作業員に向かって進んでいる状況を考えます。このときに、レバーを引けば別の線路に切り替わり、5人は助かりますが、その線路にいる1人が犠牲になります。

では、倫理学の分類ごとに、問題に対する解決策を考えてみます。

功利主義では、レバーを引くと助かる5人の幸福と犠牲になる1人の不幸を計算します。もし、全員の価値が平等であると考えるならば、レバーを引いて5人を救い、1人を犠牲にするのが正しい選択です。しかし、それぞれの人の幸福や不幸を計算する方法が決められていません。また、犠牲になった人の権利が無視されてしまいます。

義務論では、「人を殺してはならない」というルールに基づいて行動します。そして、レバーを引くと自分が人を殺すことになるのでレバーを引きません。その結果、5人を犠牲にします。この判断にも問題があります。義務論は常に同じ規則に従って行為することを求めるため、例えレバーを引くことで100人が救われるとしても、代わりに犠牲になる人が1人でもいればレバーを引いてはいけません。しかし、このやり方では個別的な状況を一切考慮できません。

徳倫理学では、徳のある人がする行動を考えます。勇気という徳を持つ人は、他方の線路に友人がいたとしても、線路を維持するために1人でも多くの作業員を救おうと決心し、レバーを引きます。一方で、正義感という徳を持つ人ならどうするでしょうか?もし、5人の作業員の判断ミスでトロッコが彼らに向かって進んでいたとしたら、それは彼らの責任です。その場合、彼はレバーを引かず、5人を犠牲にするのが正義だと考えます。このように、徳倫理学では、徳のある人がどのように行動するかを考えるため、行為の内容が具体的な徳に依存するという問題があります。

動物倫理学における分類の再解釈

倫理学の3分類について整理したので、これらが動物倫理学においてどのように解釈されるかを考えます。

功利主義は幸福や快楽を対象とします。そして、人間については幸福と快楽の両方を分析できますが、動物については快楽のみを分析できます。なぜなら、快楽は幸福に伴う感情であり、相手がどれくらい幸福であるかを知るにはコミュニケーションを取らなければならないからです。一方で、快楽については対象の行動を観察することで、ある程度評価できます。つまり、動物倫理学における功利主義は、「行為の結果としてもたらされた快楽の程度によって人間の行為の善悪を判断する立場」であると考えられます。

義務論では行為の価値を評価します。動物倫理学では、人間と動物という2つの概念を扱うため、「人間は動物に対してどのように行為すべきか?」という普遍的な問いに答えることが義務論の主な命題になります。つまり、動物倫理学における義務論は、「私たちが守るべき義務に基づいて、動物に対する人間の行為の善悪を判断する立場」であると考えられます。

徳倫理学では、私たちが身に付けるべき徳について考えます。本来の意味における徳は、人同士の交流と理性的判断によって得られる経験が積み重なることで生じる人の性向です。人と動物の関係においては、理性的判断をするのは人であるため、善悪の基準となるのは「人の考え方」であり、動物の感じ方ではありません。ただし、徳のある人は思考と行動が調和しているため、動物を観察し、その状況を正しく理解し、飼い主である自分がすべきことを理性的に考えます。つまり、動物倫理学における徳倫理学は、「観察されたことを正しく理解し、理性的に判断し、行動できているかどうかによって人間の行為の善悪を判断する立場」であると考えられます。

実世界の動物倫理

動物倫理学における立場の違いは理解できましたが、実世界で採用されている思想はどれなのでしょうか?あるいは、いずれか1つではなく、複数の思想が競合しているのでしょうか?

経済的合理性や実践しやすさの観点で言えば、圧倒的に有利なのは功利主義です。ペットの住環境を改善して快適な生活場所を提供するのに必要なお金はごくわずかですし、人の住む家をリフォームすることに比べれば、圧倒的に短い時間でペットの苦痛を減らせます。

その次に有利なのは徳倫理学です。徳の形成には時間がかかりますが、個人レベルで取り組める活動であるため、心理的な障壁は高くありません。日々ペットの様子を観察して分析するのは大変ではありますが、適切な動機があれば続けられるでしょう。

最も不利なのは義務論です。例えば、「動物を手段として扱ってはならない」という原則を定めた場合、「ペットショップで動物を購入すること」は動物を商品として扱うことになるため禁止され、「品種改良を行うこと」は人間の好みのために動物の身体を改変することになるため禁止されます。しかし、是非はあれど、どちらも経済活動の1つであり、義務論に従う経済的な動機が全くありません。また、原則によって決まる禁止事項が多いため、倫理的行為として実践しにくいです。

理想の動物倫理

これまでの考察から、現在の社会情勢において最も優勢な動物倫理学は功利主義であることが分かりました。しかし、功利主義は本当に理想の動物倫理なのでしょうか?

功利主義の問題点

功利主義は快楽の大きさを特定の指標に還元してしまうという問題があります。例えば、食欲によって自ら餌を食べていることは、その動物が快楽を感じている証拠ですが、食べすぎてしまうことに慣れてしまい、体重が増えることに対する苦痛を感じにくくなってしまった場合でも功利主義はこれを善いこととみなします。

また、撫でられることが好きなペットがいたとして、飼い主がそのペットを撫でることでペットが快楽を感じていたとします。このときに、ペットが抱いた「撫でられたい」という欲求が、同種の個体とのコミュニケーションを誘発するためのものであったとしたら、先ほどの飼い主の行動は本当に正しかったのでしょうか?

卓越性という考え方

以上のことから、動物倫理学における功利主義には根本的な欠陥があることが明らかになりました。そこで私が提案するのは、徳倫理学における卓越性を動物に応用することです。

現在の徳倫理学では、徳は人が身に付けるべきものですが、実は、「徳」に当たる本来の言葉である「アレテー(ἀρετή)」には、「卓越性」という解釈もあります。

徳倫理学における卓越性とは、あるものが本来持っている能力や機能が、最高の状態で発揮されることです。例えば、ナイフの卓越性は「よく切れること」であり、時計の卓越性は「正確に時を刻むこと」です。

動物の場合は、種ごとに卓越性を考えることができます。犬の卓越性、猫の卓越性、鳥の卓越性を考えると以下のようになります。

  • 犬の卓越性
    • 優れた嗅覚を持つこと
    • 人間との信頼関係を築くこと
    • 仲間に配慮すること
  • 猫の卓越性
    • 優れたバランス感覚と瞬発力があること
    • 単独行動を好むこと
    • 縄張り意識を持つこと
  • 鳥の卓越性
    • 優れた視覚を持つこと
    • 鳴き声で意思疎通をすること
    • 精巧な巣を作ること

このように、ペットにその種としての卓越性を発揮させるために、徳のある人が飼い主としての最善の行動を判断し、実際に行為することが動物に対する真の倫理的行為であると思いました。


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