実存主義から考えるエンジニアのキャリア形成

サルトルの思想を軸に、エンジニアとしての自己実現について考察します

投稿日: 2024年11月5日

最終更新日: 2024年11月6日

初めに

国内の労働力人口に占める非正規労働者の割合は依然として高いです。令和6年版男女共同参画白書によれば、女性のおよそ30%、男性のおよそ10%が非正規労働者です。そして、これまで主流であった年功序列から実力主義への移行は、ベテラン世代と若手世代の間に価値観の対立を引き起こしました。また、近年では少子高齢化に伴う医療や年金の支出の増加により、社会保障制度の改革が盛んに議論されています。

このように、他者に依存するシステムはもはや持続的とは言えなくなり、現代社会の価値観や規範はこれまでよりも変化しやすくなりました。自分の意志によって価値観を確立し、自分の責任で可能性を探求することが求められるようになりました。

実は、過去にもこのような価値観の転換点がありました。それは第二次世界大戦後に起きた実存主義の台頭です。第二次世界大戦によってドイツ軍にパリを占領されたフランスでは、それまで当たり前とされてきた社会システムが崩壊しました。多くの若者は他者に依存しない新しいアイデンティティを構築しようとし、それによって自分たちの行動基準を確立しようとしました。このときに支持されたのが実存主義です。実存主義とは、主体性を重視し、人間の根本的な特徴に向き合おうとする考え方です。

実存主義の意味を探ることで、現代のエンジニアがキャリア形成にどのように向き合うべきかを考察します。

実存と本質

実存主義における最も有名な言葉の1つは「実存は本質に先立つ」です。実存とは「存在すること」であり、本質とは「存在するものの根底をなすもの」です。つまり、「実存は本質に先立つ」という言葉を分かりやすく表現すると、「人間はその運命や生きる目的が決まる前に存在している」という文になります。そして、実存主義では、その運命や生きる目的を探すための自由があると考えます。

フランスの無神論者であり実存主義を唱えるサルトルは、アンガジュマン (engagement) によって自分の行動を選択すべきであると主張しました。アンガジュマンとは、主体的な選択と行動によって自分の価値観を現実化することです。自分の生きる目的を決めるためには、アンガジュマンが必要です。なぜなら、実存主義において人は初めから生きる目的を持っていないからです。しかし、彼は同時に、選択と行動という自由には人類全体に対する責任が伴うとも考えました。

自由を基点とした責任

私が主体的に選択した行動により、私が人類全体に対する責任を負うという説明はそのままでは納得できませんが、その結果を考えると納得できます。私が何らかの選択と行動により、人類全体に対する責任を負った場合に私は不安を抱きます。つまり、人類全体に対する責任を負うことには、選択と行動に対する不安 (実存的不安) を与えるという役割があります。自分の選択と行動に責任を持ち、それを不安に感じることで自分の生きる目的をさらに探求できます。

これを踏まえると、サルトルは責任を重荷として捉えるのではなく、自分の存在意義を見出すための出発点として捉えることを主張しているように思えます。 選択と行動が責任を生み、その責任が不安を生み、不安が自分の存在意義を見出す必要性を生み、さらなる選択と行動が生まれるというサイクルが作られます。サルトルは、このような「実存が主体である」という考え方を主張しています。

地獄を従える

サルトルは、「地獄とは他人のことである」という言葉を示しました。私たちが実存として自由であるならば、私だけでなく他者も自由です。このときに、私は他者から観察されるため、私は「主体」ではなく「物」のような存在に変化します。つまり、「他者にこう見られているから、自分はこうでないといけない」という制約が生まれ、私は自由な存在ではなくなります。そして、私たちは自由であるため、他者から支配されることは不可避です。しかし、この制約を受け入れることで新たな自由を得られるという見方もできます。なぜなら、制約が自由の方向性を示す枠組みとして機能するからです。

組織内では多くの意見や主張が飛び交い、自分の自由が他者によって制限されます。しかし、この制約にこそ自由に向かうヒントが隠されているのです。

実存主義とキャリア形成

では、実存主義の意味を理解できたところでエンジニアのキャリア形成について考えましょう。

エンジニアの実存的自由

エンジニアは、様々な制約の中で創造性を発揮する必要があります。これらの制約は、大きく分けて技術的な制約と事業上の制約に分類できます。

  • 技術的な制約
    • レガシーシステムとの互換性の維持
    • 選択できる技術スタックの制限
    • パフォーマンス要件
  • 事業上の制約
    • 開発予算の制限
    • 納期の厳守
    • 人的リソースの制約

これらの制約はエンジニアの自由を制限するように思えます。しかし、実存主義的な観点から見れば、これらの制約こそが創造的な解決策を生み出す機会になります。

エンジニアの実存的自由の具体例

エンジニアのAさんは、限られた予算の中で新機能の開発を求められました。AさんはOSSとクラウドサービスを使用することで、予算の制約から創造的な解決策を導き出しました。この選択により、新たな価値を生み出すことができました。

エンジニアの実存的責任

エンジニアが日々行う、自分の意志に基づく主体的な選択は、社会全体に影響を与えます。

  • 技術的な責任
    • エンジニアはユーザビリティが高いシステムを作るべきである
    • エンジニアは技術を継続的に発展させるべきである
  • 事業上の責任
    • エンジニアは持続可能なサービスを作るべきである
    • エンジニアはユーザーのプライバシーを守るべきである

エンジニアの実存的責任の具体例

エンジニアのBさんは、長年運用されていたソフトウェアの開発効率が低いことに気付き、アーキテクチャに問題があることを突き止めました。そして、誰からも要求されていなかったリファクタリングを開発チームに提案しました。

他者のまなざしを自分のものにする

エンジニアのキャリアにおいて、他者からの評価は避けられません。

  • 技術的な評価
    • コートレビューでの指摘
    • 技術選定での批判
  • 事業上の評価
    • プロジェクトマネジメントの評価
    • 上司や顧客からのフィードバック

このときに、他者から見た自分の評価を主体的に受け止めることが重要です。他者からのフィードバックを基に自分の考え方や行動の仕方の癖を見抜き、それを改善する方法を主体的に考えることで、「他者のまなざし」をエンジニアとしての成長の契機として活用することができます。

しかし、他者からフィードバックを受けたとき、私たちは時として自分と他者との価値観の違いに直面します。この価値観の対立は、組織の分断や崩壊をもたらすことさえあります。これではフィードバックの本来の価値を活かすことはできません。フィードバックを効果的に活用するために重要なのは、価値観の違いに着目するのではなく、他者が自分に対してどのような影響を与えようとしているのかを見極めることです。そして、その意図を理解した上で、自分の文脈でどのように受け止めるかを主体的に選択することが必要です。

例えば、職場で上司が「もっと積極的に発言するべきだ」と言ってきた場合を考えてみましょう。

価値観の違いに着目してしまうと、以下のような姿勢、考え、反応が生まれます。

姿勢

考え

反応

価値観の違いを固定的に捉える

私は慎重な性格なのに、上司は積極性を重視している

私は内向的な性格なので無理です。

相手の話にそのまま同調する

価値観が違うから分かり合えない

分かりました。頑張って発言します。

しかし、作用と自分の文脈に着目するとどうでしょうか?

姿勢

考え

反応

自分の文脈で解釈する

上司はチームへの貢献を求めている

事前に資料を準備し、それを基に議論することでチームに貢献したいと思います。

このように、相手の意見を「自分に対する作用」として捉え、それを自分の文脈で解釈し直すことで、建設的に対応できるようになります。そして、批判的なフィードバックを単なる価値観の衝突で終わらせずに、自分なりの実践的な解決策を見出せるようになります。