人間は非論理的な動物なのかもしれない

私が最近感じている人間の醜さを言語化しました

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背景

私も同類かもしれませんが、世の中には変なやつが多すぎます。その中で、私が不快に感じるのは非論理的な言動です。初めにおかしな言動の例をいくつか示し、次に、どうしてその言動を不快に感じるのかを考えます。

非論理的な言動

例1: 自動車を運転するときは信号を守るが、徒歩のときは信号無視をする

私はこのような人々を心の中で軽蔑しています。自動車の運転時に信号無視をする方が他人に危害を加えやすいため、一見すると交通手段に応じて行動を適切に区別しているように見えますが、そうは言っても交通ルールは守るべきです。私は、このような人々を見かけると、「彼らは法律を自分の好きなように解釈して都合良く利用する人たちなんだ」と思ってしまいます。学生がやるのはギリギリ許せませんが、社会人がやるのはひたすら痛々しいです。

例2: 上司には丁寧に接するが、部下には雑に接する

こいつらはクソです。私が高校生の頃に、相手によって明確に態度を変える同級生と出会ったことがありますが、卑しさが透けて見えるようでとても不愉快でした。人間は誰しも偏見を持っているため、差別意識を持つのは気にしませんが、それを態度に出す人々はひどく未熟だと感じます。ましてや自分が所属する組織において、損得勘定によって同僚に対する態度を変える人は道徳的に受け入れられません。

例3: 深い付き合いをしていないのに相手を友人だと勘違いする

友好関係を築くための定番の方法の1つに、「自分と同じ趣味を持っている人と知り合う」というものがあります。もちろん、趣味が同じであれば気軽に話しやすいため、比較的簡単に友好関係を築けると思いますが、共通の趣味「だけで」、友人と呼べるほどの友好関係を築ける可能性はどれほどでしょうか?多くの場合は、「赤の他人」以上、「友人」未満と言った程度の関係になるのではないかと思います。しかし、その直感に反して、自分と同じ趣味を持っている人を一方的に自分の友人だと思う人々がいます。友人になりたいならお互いにそれなりの努力が必要です。その努力をせずに友人を作ろうとする人は何も得られないだろうと思っています。

どうして非論理的な言動を不快に感じるのか

例えるならば、最近のひろゆきみたいな気持ち悪さに似ています。自分は論理的な人間であると、まるで自分のアイデンティティであるかのように声高に主張する人間が、実は別の場面では非論理的な人間として振る舞っていることに違和感を覚えてしまい、その結果、非論理的な行動を不快に感じるのだと思います。つまり、より正確には、私は全ての非論理的な言動を不快に感じるのではなく、「自分の言動が論理的であると主張する人間が行う、非論理的な言動」を不快に感じるのだと思います。

もう少し寛容になりたい

とはいえ、人間は不完全で馬鹿な動物であるため、他人のあらゆる言動に対して寛大な態度で接するように努めた方が有意義なのかもしれません。それが虚栄心から来る偽りの謙遜であったとしても、寛大な人間の方が周りから高い評価を得やすいでしょうから。