投稿日: 2024年11月10日
最終更新日: 2024年11月10日
初めに
私がエンジニアを目指す理由は、人々の主体性を高めたいからです。
私は幼い頃から現在にかけて、主体性について考えてきました。多くの人々は、「社会で生きる以上、私たちは様々な制約の中で生きている。だから社会のルールには従うべきだ。」と考えるかもしれません。確かに、社会の制約は基本的に必要なものですが、中には技術で解決できる不必要な複雑さも多く存在します。
エンジニアには、その複雑さをシンプルにする力があると思います。
幼い頃
私は物静かな子どもでした。保育園では小さいグループで砂遊びをするのが好きでした。しかし、ゲームは好きではありませんでした。なぜなら、砂遊びには明確なルールが存在せず、一人ひとりが創造性を発揮できるのに対して、ゲームはルールで厳格に方法が決められており、そのルールに従って行動しなければならなかったからです。
ゲームは現実よりも退屈な遊びだと思います。制作者はゲームにルールを追加することで、勝ち負けに向かう流れを作ります。そして、特定のゲームに強い人はそのゲームに勝ち、そうでない人は負けます。運要素はあると思いますが、所詮、期待値が決まっています。
一方で現実はどうでしょうか。現実はあまりにも自由であり、法律や社会規範などのルールはあれど、それ以外のことは何も決められていません。自分で考えて自由に行動できるのがこの世の中の面白いところだと思います。
小学生の頃
小学校に入学してからは、およそ3年間いじめを受けていました。私はこのときに、主体的に行動できない人がこれほどまでに多い事実に衝撃を受けたのを覚えています。
いきなり主体性の話が出てきたので、いじめが主体性とどのようにつながっているかを整理しましょう。いじめの構造を理解する上で、アーレントの思想が重要な示唆を与えてくれます。アーレントは、ナチス・ドイツの官僚であるアイヒマンの裁判を通じて「悪の陳腐さ」という概念を示しました。彼女が示したのは、悪は必ずしも邪悪な意図から生まれる訳ではなく、むしろ「考えることを放棄した人々」によって引き起こされるという洞察でした。
いじめの現場で私が目にしたのも、まさにこの「考えることの放棄」でした。いじめる側の多くは、特別な悪意を持っていたわけではありません。ただ、「みんながやっているから」、「空気を読まなければ」と、自分で考えて判断する責任から逃れていただけでした。
当時は教師にも相談しました。しかし、教師たちは「あんなに優秀な子どもがいじめをするはずがない」と言い、何も行動しませんでした。いわば、「テストで高い点数を取るべき」という全体主義的な思想に基づいた言動でした。
これらの経験を通じて、私は人々の主体性の喪失が引き起こす問題の深刻さを理解しました。
中学生の頃
中学校では水泳に熱中しました。水泳は個人プレーが中心であり、リレーはあれどチームワークが必要とされるのは泳者を交代するときくらいでした。自分以外の人に頼れない状況に身を置くことで、自分の能力と向き合い、他者にどう言われようと自分に自信を持つことができるようになりました。
水泳での経験は、私に重要な気付きを与えてくれました。人は本来、主体的に行動する力を持っています。しかし、その力は適切な環境がなければ発揮されません。水泳という個人競技は、私に自分と向き合い、自分の限界に挑戦する環境を与えてくれました。その環境では、自分との純粋な対話があり、主体的な成長の機会がありました。
高校生の頃
高校生の頃に顎を患い、3年間のうちおよそ半分の期間、頭痛に苦しみました。一方で、高校1年生の頃からSNSを始め、「成功者」と呼ばれる人々の様子を目の当たりにしました。それらの「成功者」は、良好な人間関係を築いており、富を手にしており、有名でした。しかし、当時の私は顎の病気を抱えながら勉強し、ときどき数少ない頼れる友人と連絡を取っているだけでした。私は「社会が求める理想」と「現実」の間に大きな格差を感じ、無力感を覚えました。
ところで、高校には私が尊敬する教師が2人いました。一人は現代語の教師で、もう一人は古典の教師でした。彼女らは明らかに自分の教育に誇りを持っており、堂々としていました。現代語の教師は、教師でありながら現在の教育制度を批判し、常により良い教育について考えていました。古典の教師は、古典文学が大好きで、百人一首の上の句と下の句を全て覚えているほどでした。
二人の教師に共通していたのは、社会の中で「あるべき姿」を演じるのではなく、自分の信じる道を進む強さでした。彼女らは、制度や慣習の中で自分なり主体性を見出し、実践していたのです。
高校3年生の頃に、インターネットでプログラミングについて知り、その入門書を購入しました。本を読み進めるうちに、単なる文字列から複雑なシステムを生み出せる自由度の高さに魅力を感じ、情報工学を学ぶことを決意しました。
大学生の頃
大学1年生の頃から大学4年生の頃まで課外活動に参加し、他の学生とともにアプリケーションの受託開発をしていました。学生団体でソフトウェア開発をすると、未熟であるがゆえにプロジェクトが炎上しそうになることがあります。プロジェクトが炎上しそうになると、「締め切りまでに時間がない」、「誰もやりたがらない」などの問題が起きます。
私がこのような問題に対処できたのは、まさに主体的な行動の大切さを理解していたからでした。客体的な思考では、「締め切りまでに時間がないのは締め切りを決めた人のせいだ」、「誰もやりたがらない仕事であっても、誰かがやってくれる」と考えます。しかし、私はあえてこのような問題に正面から向き合い、積極的に仕事を引き受けました。
この経験を通じて私は、自ら考え、判断し、行動することの価値を実感しました。この経験は、「自分との対話」を、チームという文脈の中で実践することでもありました。
ハイデガーは「良心の呼び声」という概念を示しました。ハイデガーによれば、人間は普段、「世人」として日常生活を送っています。しかし、時として私たちの内側から「呼び声」が聞こえてきます。この「呼び声」は、私たちに「本当にこれでいいのか?」と問いかけ、主体的な判断を促します。
私は、開発の経験を通じて「良心の呼び声」に耳を傾け、それに従って行動しました。私は、目の前にある問題を誰かのせいにせず、自分で正解を選び取ることができたことを誇りに思います。
大学院生の頃
大学院に進学してからは、自分の人生について深く考えることが増えました。なぜなら、大学院はそれまでの教育機関とは異なり、主体性を何よりも重視するからです。自分で研究テーマを決めて取り組まなければなりませんし、その中で問題が生じたら教師や他の学生に自ら相談して解決しなければなりません。
ところで、「周りの人々が進学するから」という理由で大学に進学する人々もいると思います。この場合は、周りの人々に進学する責任を押し付けられるので気楽です。しかし、大学院ではその理屈は通用しません。進学という私の行動に対する責任を私が取らなければなりません。
これは人生に似ています。私の人生を私が選ぶということです。そして、私の人生を他者に委ねるのも私の選択です。しかし、どうせならば自分の人生は自分で選んだ方が面白いのではないでしょうか?他者に委ねてしまえば私は主体性を失ってしまいますし、主体性を失ってしまえばそれは私の人生とは呼べません。また、他者が勧めてくる方法はいい意味でも悪い意味でも「実績がある」ものばかりです。ニーチェは、主体的に行動し、その結果失敗したとしてもそれを受け入れる「運命愛」が必要であると説きました。大学院での経験は、私に「運命愛」の実践の場を与えてくれています。研究の過程で直面する困難や失敗は、時として耐え難いものです。しかし、これらはすべて私が主体的に選んだ道の必然的な一部なのです。
この経験から、私たちは主体的に行動することで、運命を「押し付けられたもの」ではなく「選び取ったもの」として捉えることができ、結果としてより前向きに人生と向き合えると感じました。そして私たちには、自分の人生を生きるための主体性が必要なのだと感じました。
最近、主体性について考えさせられた出来事があります。ある現役エンジニアに、キャリアについて相談していたときの話です。彼は、国内でも有数の大企業に勤めていました。彼は自分がやりたい仕事をしており、大企業なので待遇も良く、充実したキャリアを歩んでいました。彼はやがて結婚し、子どもが生まれました。
しかしある日突然、会社の方針が変わり、彼の部門が担当する業務内容が大きく変わってしまいました。しかし彼は、「他社よりも待遇がいいから」、「家庭があるから」という理由で引き続きその企業で働いています。
彼は幸せな人間でしょうか?私はそうは思いません。経済的な安定が保証されているにもかかわらず、彼と話している間、彼は最初から最後まで悲観的でした。会社という存在に自分のアイデンティティを保証してもらっていたのに、それが突然、会社によって台無しにされたからです。
この事例からも、私たちが主体的に行動することの価値が理解できると思います。
私がエンジニアを目指す理由
前述したように、私がエンジニアを目指す理由は、人々の主体性を高めたいからです。
具体的な方法としては、社会の仕組みが人々から奪った主体性を取り戻すことで、主体的に行動する機会を人々に与えたいと考えています。このときに、「私たちは、人々に対して主体的な行動を直接促すことはできない」ということに注意する必要があります。なぜなら、主体的な行動とはそれぞれの人が物事を選んだ結果としての行動であるからです。つまり、私たちは人々に自由を与えるだけであり、人々は自分の判断でその自由を活用する責任があります。
そして私は、今どんなに他者に依存して生きる人であっても、始めは主体的な人間であったと考えています。
ニーチェは、私たちの精神には3つの段階があると考えました。最初は「ラクダ」、次に「ライオン」、最後に「子ども」です。最初はラクダのように重荷を背負い、耐え忍びます。このときに社会規範や道徳、伝統的な価値観を受け入れます。次はライオンのように既存の価値観を批判します。このときに批判的思考を身に付けて自己主張をします。最後は子どものように純粋で創造的になります。このときに新しい価値観を生み出します。
例えば、子どもが積み木で遊ぶ状況を考えます。ある大人が、積み木を使って家を模した作品を作りました。しかし、それを見た子どもは、「これは宇宙船だ!」とか、「いや、これはケーキ屋さんだよ!」などと言います。つまり子どもは、「家」という既存の価値観に縛られずに自由に考えられるのです。
ケン・ロビンソンが子どもの創造力について紹介した動画があります。ぜひご覧ください。
話を戻すと、私たちは子どもの頃は皆、主体的な人間でした。しかし、教育現場、職場、家庭のような社会規範がこれを奪ったのです。私はエンジニアとして、社会規範に奪われた主体性を取り戻したいと考えています。具体的には、社会の仕組みを技術でシンプルにしたり、新しい社会の仕組みを生み出せれば、人々は社会の仕組みに主体性を奪われる機会が減るのではないかと考えています。
例えば、Duolingoは技術によって学習をシンプルにしました。Duolingoにはスペーシング効果を利用した機能が実装されており、AIが最適な復習タイミングを計算して学習の時間を通知します。また、マイクロラーニングを活用して空き時間に学習できるようにすることで、学習の継続性を高めました。また、完全無料で利用できるようにすることで、これまでペイウォールによって制限されていた教育に、誰もがアクセスできるようになりました。
このように、人々を社会の仕組みから解放するシステムを、私がエンジニアとして作り上げることで人々の主体性を取り戻したいと考えています。そのために、私はラクダ、ライオン、子どもという過程を経て、既存の価値観に囚われない新しい価値観を持って行動できるようにならなければなりません。