都会が住みにくいと感じる理由

ハイデガーの思想を軸に、都市生活における違和感と向き合います

投稿日: 2024年11月8日

最終更新日: 2024年11月9日

初めに

都会、郊外、田舎のどこに住みたいかを調査したアンケートによれば、郊外に住みたい人が全体のおよそ6割で最も多く、都会に住みたい人は全体のおよそ3割、田舎に住みたい人は全体のおよそ1割だそうです。私は今田舎に住んでいますが、この調査結果は納得できます。アンケートの回答項目のうち、「買い物に困らない」、「交通の便が良い」は郊外と都会の両方で上位です。確かに、田舎では車を持っていなければ買い物に困りますし交通の便も悪いです。

しかし、それ以外の上位項目は興味深いと感じました。例えば、郊外に住みたい理由の1位は「バランスがよくて住みやすい」、7位は「ほどよく自然がある」ですし、田舎に住みたい理由の1位は「自然に囲まれて暮らしたい」、4位は「人が少ない」です。

これらはいずれも都会にはない要素であるため、これらの要素がないことこそが都会が住みにくいと感じる理由なのではないでしょうか?この記事ではハイデガーの思想を軸に、都会が住みにくいと感じる理由を読み解いていきたいと思います。

ハイデガーの思想

まずは、ハイデガーの思想を整理しましょう。

人という存在者

ハイデガーは「存在」と「存在者」という概念を示しました。存在とは何かが存在する事実であり、存在者は存在するものを指します。例えば、「人がいる」という事実は存在であり、人は存在者です。さらに彼は、存在について考える「人」のような存在者を「現存在」と呼び、他者と関わりながら存在する「人」のような現存在を「世界内存在」と呼びました。

人はその可能性に向かって行動できる

ハイデガーは、人のような現存在にはあらかじめ定められた目的がないと考えました。そして、現存在は自分がなりうる様々な可能性に向かって生きられると考えました。

ここでは、「人」を例に現存在について考えます。人はいつ生まれるか、どこで生まれるか、どのような家族の下に生まれるかを選べません。このような自分が選べない出発点に自分が投げ込まれることを「被投」と呼び、自分の可能性に向かって自分を投げ出すことを「投企」と呼びます。

彼は、私たちには被投性があるという事実を受け入れることで、被投的な状況でも投企を通じて自分の可能性のために行動する考え方を習得できると考えました。

死を直視する

ハイデガーは、「人は死に向かって生きる存在者であり、自分の死に対する責任は自分のみが取れる」という事実を受け入れることで、私たちは自分の可能性を引き受けることができると考えました。この考え方を「死への存在」と呼びます。そして、自分が死への存在であることを受け止めて行動する状態を「先駆的決意性」と呼びます。

また、彼は先駆的決意性を持つことで人は「本来性」を持てると考えました。本来性とは、自分の可能性を理解して生きる状態です。 逆に、先駆的決意性を持たず、自分が死への存在であることを受け止めずに周りに流されて生きる状態を「非本来性」と呼びます。

世人の生き方

彼は、非本来的な人を世人 (「ひと」と読む。ダス・マンともいう。) と名付けました。世人は他者に同調して生きています。

例えば、会社で上司の命令に従う状況を考えます。このときに世人は、何も考えずに上司の命令に従ったり、「上司には従うべきだ」と考えて行動したり、命令に従って問題が起きたときに上司の責任にしたりします。

別の例として、プレゼンで会社員が行う自己紹介を考えます。世人の場合は以下のような内容になります。

プレゼンを担当する営業部の山田です。入社3年目で、東京エリアの新規開拓を担当しています。趣味はゴルフと読書です。ビジネス書が好きで、最近は〇〇という本を読んでいます。まだまだ未熟ですが精一杯頑張りますので、よろしくお願いします。

この自己紹介において彼は、他者と比較できる指標で自分を説明しており、会社員としてあるべき姿に沿った趣味を述べており、最後に自分が未熟であると述べることで、失敗したときに生じる自分の責任から逃れようとしています。

私たちは世人に抗う世人である

しかし、世人の生き方はおかしいのでしょうか?いえ、そんなことはありません。上司の命令に従うのは上司が信頼できるからであり、自己紹介において、他者と比較できる指標で自分を説明するのは会社での自分の役割を説明するためです。実はハイデガーは、世人としての在り方を否定していません。なぜなら、私たちは最初から、世人として被投されている存在者であるからです。そして、私たちは世人ではない生き方をしようとすると、一度は世人ではない生き方ができても、結局また世人に戻ってしまいます。

例えば、消費行動における流行を考えましょう。Aさんは「無印良品は大衆的すぎる。僕は北欧の雑貨しか使わない。」といったとしても、北欧の雑貨が新たな流行になるだけです。そもそも、無印良品も北欧の雑貨も用意されたモノであり、他者から与えられるという意味では他者に流されていると言えます。

しかし、この例のように、私たちは常に世人の生き方に抗おうとします。つまり、私たちは世人であることを肯定しながらも、時に世人であることを否定する両義的な存在者なのです。

どうして都会は住みにくいのか?

ハイデガーの思想が整理できたところで、都会が住みにくいと感じる理由を考えます。ここでは、人の多さと自然の少なさに着目して説明します。

世人として生きることを強いられる

私たちは世人の生き方から逃れようとします。しかし、都会では世人として生きることを強いられます。

駅では、誰もがホームの同じ位置に整列して並びます。混雑する改札前では流れに身を任せて歩きます。

オフィス街では、昼休みになると人気店になんとなく並びます。オフィスワーカーと同じような服装を選びます。今どきのカフェでテレワークをします。

休日は、周りの人々の話に付いていくためにSNSで話題の新スポットに行きます。

人気のお店では、店員や他の客の目を気にしながらショッピングをします。

このように都会では周囲からの同調圧力が大きくなり、世人の生き方から逃れるのが難しくなります。

存在忘却が深まる

ハイデガーは、私たちが世人になることで物事の本来の在り方や意味を見失い、全てを「役に立つもの」としてのみ見てしまう「存在忘却」という概念を示しました。そして、私たちは存在忘却の時代に生きていると主張しました。都会でもこの存在忘却が起きています。例として、私たちが都会で生活している状況を考えます。

オフィス街の高層ビルを、働くための空間であると捉えます。

駅前のマンションを、寝るための場所であると捉えます。

入り組んだ道路を、地点を移動するための経路であると捉えます。

公園のベンチを、一時的に休憩するための設備であると捉えます。

公園の芝生を、見た目を整えるカーペットであると捉えます。

ハチ公像を、渋谷駅の待ち合わせスポットであると捉えます。

大雨が降ったり強風が吹いたりすると、途端に多くのイベントが中止になり、交通機関が麻痺し、雨や風は単なる邪魔者として扱われます。

しかし、それぞれの物事には本来、以下のような意味があります。

オフィス街の高層ビルは、様々な出会いや創造を生む空間です。

駅前のマンションは、人々の生活が営まれる場所です。

入り組んだ道路は、人々の往来が作り出した歴史的な痕跡です。

公園のベンチは、休息を取りながら深く考えることができる空間です。

公園の芝生は、季節の移ろいを感じさせる存在です。

ハチ公像は、人と動物の深い絆を伝える存在です。

大雨や強風は、自然の生命力の表現であり、生態系を支える要素の1つです。

このように、都会で生活する私たちは存在忘却を自ら促しており、物事の深い意味や価値を見失っているのです。